昭和50年12月22日 朝の御理解



 御理解 「理」
  「今日は御理解の「理」ということを頂きましたので、この理ということについて頂きます。」

 神様に一生懸命お縋りして、おかげを頂くと言う事。これは大体理屈に合わない。神様にただお願いして、おかげを頂くと言う事は理屈に合いません。よくよく考えてみると合わない様であるけれども、また合う様でもある。一生懸命に祈るとか願うと言う事。これはただ一生懸命にお願いをする、一生懸命の時には何にもない。まあ云うなら一生懸命というのは命を懸ける一生の命を懸けると書いて一生懸命。
 人間の一番大切なものは命です、その命を懸けての願いこれは矢張りだから、神様もこの一生懸命に矢張り動きなさると言う事が分かります。同時に私共がおかげを頂くと言う事、なかなかこの一生懸命と云うのは、中々一生懸命のようであって一生懸命が欠けます。そこで神様は受け物を造れと。これはまあ素人でも理屈が分かります。おかげを頂きたいなら、矢張り一升のお酒を買いたいと思うなら、一升の入る入れ物を持って行かねばならん様に、受け物を造ると言う事が先決だと言われる。
 段々お話を頂いて参りますと、神様は絶対のものである。神様は絶対だけれども、こちらが絶対でないからおかげにならん。信心とはその絶対信と申しますか、神様を信じて疑わないと云う心を鍛えて行く稽古だと云うても良いのです。神は信ずるものを信ずると仰る。しかもそれは確信である。信心の稽古と言うのは、その神様を絶対のものとして稽古をして行く。こちらの方に間違いがある、神様の方には間違いが無い。そこでこちらの間違いを気付かせて頂いて正して行く、そこに受け物が出来る。
 私は思わして貰うのに、日々の御祈念をさして貰う、願う事は沢山ありますが、願うて居る事を神様は一々聞き届けておいて下さる。神様は例えばおかげを下さってあるのですけれども、そのおかげの邪魔になる様な心が私共の心の中にある。私共がお願いをする。神様はそれを必ず聞き届けておって下さる。けれどもこちらがそのおかげを邪魔する様な心がある。だから頂けんのだと。
 そこで私共はお取次を頂いてお願いをする事が、神様はおかげを下さる働きを示して下さっても、こちらがそのおかげを邪魔をする働きをする。そこでおかげの邪魔になっておるものが自分の心の中にあると分かった時に、そこを改まって行かにゃならんと言う事が分かる。大きなおかげが欲しいなら、おおきなおかげの受け物を造らなければならない。そこで寛大になれ、寛大になれとこう言われるのです。大きなおかげの欲しいのにも拘らず寛大にならない。
 許されない一寸した事がイライラする腹が立つ、そういう心が邪魔をする心なんです。おかげの神様は絶対のもの、願えば神様がそれを聞き届けて下さるのだけれども、それを受けさせまいとする邪魔な心があるそれを私は廻りだと思う。おかげは絶対のもの神様は聞き届けて下さるのだけれども、受ける方の側が絶対でない。いや神様はおかげをちゃんとしつらえて下さるのだけれども、それを頂けん様な邪魔な心が私共の心の中にある。その邪魔な心を私は廻りだと思う。
 だから廻りの取り払いを頂き、その廻りを払うて頂くという一つの改まりがなされなければならない。おかげの受けられない元が貴方の心の中にある。おかげの邪魔をするものが貴方の心の中にある。それは廻りである。その廻りのお取り払いを頂かねばならん。今日私は御神前で数字の五、六と言う事を頂いた。五と言う事は私はめぐりと言う事。業が深いと言うでしょう。難儀が尽きないと言うでしょう。あの人は業が深い、業と言うのはめぐりだ。六と言うのはお徳と言う事。
 その人の力次第で、例えば昔は殿様の禄を食むと云う。千石取りも居りゃ五百石取りも居る。百石取りも居ると云う様にそれはそのまま禄と言う事は徳と言う事である。私は五、六と頂いて思うんですけれども、その業が深ければ深い程、私はお徳を受けられると思うです。今も申しますようにお願いしてもお願いしてもおかげを頂かれん、一生懸命お参りをしよる積りであり、一生懸命改まる事にも磨く事にも努めて居る積りである。けれどもおかげが受けられない。
 何処にかそのおかげの邪魔をするものが心の中に潜んで居る。自分でも気付かんそのめぐりが、その業が様々な難儀に依って溶けて行く、言わば難あって喜べと言う事は、その難そのもが有難いのではない。その難に依ってめぐりのお取り払いを頂いて居るから有難いのである。病気なら病気をする事が有難いと言う事じゃない。けれどもその病気というめぐりのお取り払いを頂いて居ると言う事が有難いのである。私共が思うて見ますよね、自分の心を教えに照らして見て見ます。
 そして成程こういう心ではおかげが頂かれんだろうと思う、分かっている。所が中々取り払えない。言わばめぐりが居座って動こうとしない。そこで神様はもう自分の力ではどうにも出来ない。居座って居るからそれを取り除く力が無い。そこでおかげを下されと言うて願うから、そのめぐりがあってはおかげの邪魔をするからそのめぐりをお取り払い下さる働きが難儀である。
 困ったと言う事である。痛い痒いである。そこでそういうめぐりのお取り払いを頂いて行く内におかげの邪魔をするめぐりが何時の間にか難儀という形で崩れて行くと言うか取る去られて行くと言うおかげになる。難有って喜べと言うのはそういう理から教えられた言葉だと思うです。難はみかげ難あって喜べとか難そのものは決して有難いものでは無いけれども、その難に依ってめぐりのお取り払いを頂くと言う事。もう一番絶対の理であります所のです、おかげが欲しいなら受け物を造れと言う事。
 大きなおかげが頂きたいならば大きな受物を造れと言う事。こんな間違いの無い理はありません。だからその理を踏んまえて私共がです、受物造りに一生懸命にならなければならない。愈々寛大な心、豊かな心を頂く事の為の精進をする事に依って心が大きくなって豊かになって行く。困った痛い痒い難儀と言う事の都度にです、そのお取り払いを感謝する心、めぐりのお取り払いを頂く、所謂難あって喜べと言われるから、難その物は有難いものでは無いけれども、めぐりのお取り払いを頂いたと言う事は有難いとして、お礼を申し上げて行く時にです、そこには一切が有難いと言うものだけになって来る。
 そういう私は信心が出来た時初めて有難いおかげの世界に出る事が出来ると思います。先ず私共がね、自分の心の中に神様は絶対だけれども、絶対のおかげは聞き届けて下さるのだけれども、そのおかげを邪魔するものが心の中にあると言う事。それを改まり又はめぐりのお取り払いを受けて行く、言わば愈々受け物がその様にして出来て行くのである。その証拠に例えばお徳を受けたという、私共が知って居る限りの方達のお徳を受けられた、それこそ偉大なお徳を偉大なおかげを受けておられる方達はです。
 皆そこを通って居られるということです。寛大になる事の精進を一生懸命しておられる。限りなく美しゅうなる事を一生懸命精進なさる。同時に言わば、これ程信心するのにと云った様な事が起きて来てもです。それをどっこい、と受け止めてその実体を、言わばよく分からせて頂いて、めぐりのお取り払を頂いておいでられておる。勿論そこにはこれに依って力を与えて下さると言う様なお礼、めぐりのお取り払、下さってと言うお礼、そういうめぐりを克服して行くと言うか。
 めぐりを心から追放して行くと言うか、そういう働きを頂いたその暁に、所謂本当のおかげの世界と言う者がある、私共の心の中に本当に自分がその気になれば改まれる事がある。お話を聞いて居ってそれがおかげの邪魔になって居るならば、矢張り精進して努力をしてお取り払いを頂かねばならん。けれども是だけは、自分の力ではどうにも出来んと云う事がある。それこそ心の中に居座って居るめぐりの場合などは、自分の力ではどうにも出来ないものがある。
 そのお取り払いを、それは少し宛ではあるけれどもです、様々な信心が進んで行くと言うか、又は難儀と言うかその難儀の事に依ってそのめぐりが、お取払いを頂いて信心が進む事に依ってそれが分らせて頂く。そこに例えばめぐりのお取払いを頂いて有難いと言う心も生まれて来る。今日私は皆さんに「理」ですね、道理と言うそのおかげを頂く理と言う事を聞いて頂いた。
 おかげを頂く為にはどうしても受物を創らねばならん。受物なしにおかげを下さいということはそれは無理な話である。そこで私共は是は本当のおかげですよ。本当でないおかげということもある訳です。本当のおかげを頂く為にはということは、まあそうですね徳を受ける為と言った方が良いかも分かりませんね。本当のおかげを頂く為には矢張り本当の受物を創らねば絶対受けられない。
その本当の受物がです、自然の中にお取払いを頂いて行く、信心さして頂いて居ると何時の間にかそれが様々な難儀の形、様々な事柄の形でお取り払いを受けて行く。云うならば私共が五(業)、六は(禄)の元であるということを知らねばならぬ。難儀は徳の元であると言う事を知らねばいけません。五から六に進んで行かなければならぬ。そこで難儀様と言う事になり、めぐり様と言う事になる。めぐりが大きければ大きいだけ、だからお徳も大きく頂けると言う事」になる。
 そういう理のものですから、私共がね先ず自分のめぐりの自覚が出来て、その自覚に立って信心を進めさして頂く所から、愈々受け物を創らせて頂く事のための、精進をさして貰う。そこでそういう信心を頂いて行く為の一つの心掛けとして、私共が昨日或方に頂いたんですけど、岩と言う字を頂いた。山を書いて下に石が書いてある。これは岩というのは固い心だと言う事でしょうね。岩の様に硬い心それを分解すると山、石と書いてある山と言うのは修行と言う事である。
 石というのは心と言う事である。修行と言う事は、山で修行と言う事を表現してある。石というのは私共の心の事である。だから何時も私共が絶えず修行精神を、心の中に養うて行かねばいけない。いうならばですここに二つの道がある。そんなら何時でも私共が険しい方を取ろうとする。難儀で云うならば皆が楽をしたい、楽をしたいというけれども、もうこちらが楽をせんぞと言う気になる事。
 そういう心が岩のように硬く心の中に頂けていく、そこから所謂確信が生まれて来る。そういう是は今日私が皆さんに聞いて頂いた様な事、身ににつけて行く為の一つの姿勢です。まあそれを厳しい事に云わずに簡単な事から言うても良いです。私共が日々には様々な、ええも糞とか面倒臭いとかと言う事があるでしょう。もうええも糞と云う様な時にええも糞と付けづにそれを有難いとか御の字を付けて頂くと言う事なのです。
 もうせからしか面倒臭いと言う事を、せからしかとか面倒臭いと言わずにそれを一つ丁寧になして行く事です。例えて言うと、朝起きてもうせからしかけんで顔を洗うのをやめようと言う事があるでしょう。そういう時に丁寧に洗うと言う事なのです。手紙が来て居る。返事出さないけないけれども、せからしか、と言わずにそのせからしか方を取って手紙を出すと言う事なんです。返事を書くと言う事なんです。だから一番手前の所はそういう処から、私共はですせからしいとか面倒臭い方を取って行くと言うのです。
 それをないがしろにする、それを言わばなおざりにして行くと言う事では、所謂少しでも楽をしたい楽をしたいと言う心ですから、そういう姿勢では今日の私が申します、言うならおかげの本当の受け物は出来ません。それをお道の流儀に依ると、全ての事に実意を込めてと言う事になるのです。私共の周囲に小さい事の中に、そう言う事が沢山ありはせんでしょうか。なら着物なら着物でも脱ぎ散らかし、そげな事はいけない事は分かっとるけど、もうすぐ着らにゃいけないからよかよかと、それがいけないのです。
 もう心して見るとそういう、雑な事が沢山有るようです。かと言うて又そういう生き方を、本気で身に付けさして頂くと言う様な、愈々ぶっつけ本番と言う様な大きな事に直面したときに、尚更出来ないでしょう。私共がそういうおかげを頂く姿勢としてです、先ず岩と言う字を昨日頂きましたが、何時も何か山に登って居る様な、油断したら上に登れない様なそういう心掛けが五を六にして行く事の為には必要です。
 そして徳の世界に住まわせて頂く時にです、もうそこには面倒臭い事もなからなければ、ええも糞と言う事もないでしょう。もうただ有り難い有り難いと言う世界があるのです。だから有り難い有り難いおかげも又続けて頂くのです。頂き続けて行く事が出来るのですそれをお徳の世界と言う。そのお徳と言うのは只お徳を頂きたいお徳を頂きたいと言うだけでは頂けないのです。それこそ受け物を創らなければならない。めぐりのお取り払いを頂かねばならない。
 そしてめぐりのお取り払いを頂いた時にです、あぁあぁ言う難儀な事も、あのめぐりと思うて居った難儀の元もです、実は神様の氏子可愛いと言う一念、言うならば神愛の現れであったと言う事が分かるのです。もうそこに本当の神愛の中に住む事が出来る。難儀を決して疎かにしてはならない。それこそ面倒臭がってはならない。一つ一つ丁寧にそれを取り払うて行く、取り片付けて行く心が要ると思います。今日は皆さんおかげを頂く、お徳を頂く「理」を聞いて頂きました。
   どうぞ。